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奈良コラム 大仏さま byデリヘル出勤速報

奈良と言えば大仏ですね!そう、ご存知、東大寺の大仏です。
正式名称、東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」として知られる仏像です。奈良市の東大寺金堂の本尊です。聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始されて、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ←魂入れの儀式ですね)が行われましたが、現存する像は中世・近世の補修がはなはだしくて、当初の部分は台座、腹、指など、ごく一部が残るにすぎないそうです。「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝にも指定されているそうです。
大仏の正式名称は「盧舎那仏坐像」、大仏殿の正式名称は「東大寺金堂」というそうです。奈良の大仏にはちゃんと名前があったようです・・・
この大仏さま、以前は、奈良ではなく、今の滋賀県甲賀市に造られる計画だったそうなんです。ですが、紫香楽宮の周辺で山火事が相次いだり不穏な出来事が多かったために造立計画が中止されて、都が平城京へ戻ると同時に、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始されました。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ、国公麻呂とも言われます)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっています。天平勝宝4年の開眼供養会では、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする要人が列席して、参加した僧は1万人にも及んだそうです。正倉院文書には、この時列席した僧の名簿が残っていて、「僧一万人」は誇張ではなかったことが知られています。開眼導師は菩提僊那(ぼだいせんな)というインド出身の僧が担当したそうです。開眼の際に使用した筆や、当日大仏に奉納された伎楽に使用された面などは、正倉院宝物として現存しているとのことです。デリヘルは関係ないような。。

この大仏さまは燃えまくっています。
完成後数十年しかたっていないにもかかわらず、亀裂や傾きが生じ、斉衡2年(855年)の地震では首が落ちるという事故があったそうです。ほどなく修理されていますが、その後大仏および大仏殿は、源平争乱期と、戦国時代の2回、兵火で焼失しているそうなんです。
まず、1回目の消失ですが、治承4年(1180年)の平重衡の兵火(南都焼討)によるもので、この時には興福寺が全焼、東大寺も伽藍の主要部を焼失する大惨事となりました。この時、大勧進職として東大寺再興に奔走したのは俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)という僧です。「勧進」というのは仏と縁を結ぶように勧めることで、転じて寺院の再興などのために寄付を集めることを言います。また、その役を担う僧のことです。重源は当時来日していた宋の鋳工・陳和卿(ちんなけい)らの協力を得て、大仏を再興、文治元年(1185年)に開眼法要が営まれました。この時、開眼の筆を執ったのは後白河法皇であったそうです。また、大仏殿の落慶法要は建久6年(1195年)、後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われました。

2回目の焼失ですが、永禄10年(1567年)、松永久秀の兵火によるものです。この時は時代背景も違って、復興事業はなかなか進まなかったようです。大仏殿はとりあえず仮堂で復興しましたが、それも慶長15年(1610年)に大風で倒壊し、大仏は仏頭が落ち、雨ざらしの無残な首無し状態で数十年が経過したといいます。
貞享元年(1685年)に、公慶上人は、幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得て、ようやく再興が始まったそうです。こうして元禄4年(1691年)に完成、翌年開眼供養された大仏と、宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が現存のものなんだとか。
現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代から室町時代の補修なんですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などには一部天平時代の部分も残っています。台座の蓮弁に線刻された、華厳経の世界観を表わす画像も、天平時代の造形遺品として大変貴重なものだそうです。
この大仏さま、ホントついてないですね。3度目の正直で今後は絶対に燃えてしまうなんてことがないようにお祈りしたいものですね...まったくデリヘル関係なかったですね。